刑罰論

大学3年時、発狂しながらゼミ論を書いた。それから丁度10年になるが、論旨自体は誤っているとは思えないので、大幅に加除修正した上で、衆目に晒したい。
もしお読み下さるという奇特な方がいらっしゃれば、かなり突飛な主張だなーと、笑って読み捨てて頂ければ幸甚です。

 

刑罰論

 

1・刑罰は何故正当化されるのか

刑法 第199条

人を殺した者は,死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する。

 

 我が国では,殺人をした者は,死刑に処せられる(ことがある)。人殺しは犯罪である。人を殺して捕まれば,報いとして刑罰を受けねばならない。死刑に処されることもあれば,懲役刑を宣告され,塀の中で一生を終えることもあろう。

 だが,死刑それ自体も国家による殺人である。懲役刑もまた,国家による自由の剥奪に他ならない。では,なぜそのような自由や生命への干渉が,許されるのだろうか。これが刑罰の正当化根拠についての議論の出発点である。

 

2・応報としての刑罰

 第一の伝統的な考え方は,刑罰を受けるのは当然の報いだからだ,という。これを応報刑論と呼ぶ。悪事を行ったのだから,それに応じた報いを受けなければならない。確かに刑罰は,人の生命や自由,財産を奪う害悪ではある。しかし,そうした刑罰を受けるのは,罪を犯した結果なのだから,力学にいわゆる作用反作用の法則のごとく,当然なのだ,ということである。

 

3・犯罪を予防するための刑罰

 これに対し,第二の考え方は,刑罰は,犯罪が起こるのを防ぐという目的ゆえに正当化される,とする。これを目的刑論と呼ぶ。目的刑論は,その目的の対象から,さらに2つの考え方に大別される。その一つは,市井の人が犯罪者となるのを防ぐという目的を掲げる一般予防論であり,もう一つは,罪を犯してしまった人が再犯者となるのを防ぐという目的を見出す特別予防論である。

 一般予防論は,我々が行動をするとき,刑法は我々を威嚇するのだ,という。法律に,殺人者は死刑に処す,と定められていることで,我々は殺人を思いとどまる,というのだ。

 また,特別予防論は,罪を犯してしまった人を啓蒙し,矯正することで,その人が将来再び罪を犯すのを予防する,という刑事政策的な考え方をとる。

 

4・「予防効果」は本当にあるのか

 現在の日本では,応報刑論・目的刑論2つの考え方を折衷する立場をとる論者が多い。刑罰は罪を犯したが故に科されるが,その目的は犯罪予防にある,などという。

 だが,これは理論的に不明瞭である上,刑罰に犯罪の予防効果がどれほどあるかは,十分検証されていない。一般予防論について,我々が行動を起こすとき,刑罰が本当に威嚇的効果を示しているだろうか。「あいつが憎いが,あいつを殺して死刑になるのは御免だから,あいつを殺すのは止めておこう」などと考えて殺人を断念するだろうか。

 少し考えてみれば分かるように,「わたしたちが法に従っているとき,『法だから従っている』という意識はもっていないのである」[1]から,一般予防論はその意味で机上の空論に過ぎない,と言わざるをえない。

 特別予防論はどうか。再犯者が一定数存在し続けることは,現状,特別予防の失敗を意味しているのではないか。犯罪者の社会復帰に向けた実践は「何も効いていない(nothing works)」というほかない,とする指摘もある通り [2],何度も同様の罪を犯す再犯者が後を絶たない以上,特別予防は機能していないように見受けられる。

してみれば,刑罰の犯罪予防効果は(あったとしても)限定的であって,更なる犯罪の発生を予防する,という目的は画に描いた餅に過ぎない,と言うべきだろう。

 また,刑罰の目的を重視する考え方には,犯罪予防という目的を実現するため,行き過ぎた重罰化を招くという危険もある。極端な例を挙げれば,犯罪被害を無くす為,窃盗犯を見せしめに死刑に処す,ということも許されよう。

 

5・「意志の自由」を巡って

 にもかかわらず,刑罰に目的を求める立場が支持を集めてきたのはなぜか。これには,自由意志論と決定論との哲学的な対立が背景にあると考えられる。

 応報刑論の多くの論者らは,人間の意志の自由を観念してきた。例えば人が,「ご飯を食べるか,それとも先に風呂に入るか」ということを選ぶとき,その決定は自由になされるものであり,そこには自由ゆえの責任があった。

 これに対し,生まれつきの性格や周囲の環境から,人の行動はある程度(或いは完全に)決定され,運命付けられている,とする立場より支持されたのが目的刑論である。こうした立場には,自由な行為の結果として生じた責任を問う応報刑論の立論は馴染まなかった。

 法廷で被告人の生い立ちを聞くと,犯罪に走ってしまうのも已むを得ないと思ってしまう,そんな事件があるのは否定できない。それでも,自由意志の存在を完全に否定し,我々の行動は宇宙ができた時から全て決まっている,等と考えるのは不適当である。

 この点については,カント自身が,「われわれは決して単に反射的に行動するものではなく,常に何を為すべきかを考える。たとえいつも悪いことばかりしている人でも,自分は本当はこういう行為をすべきではないという意識を持つであろう。このようにどんな人でも道徳律が存在することを意識しているのであるが,このことはすなわち人間が意志の自由を持っているということを示すのである。なぜならもしもわれわれの意志が現象界における経験的事物のように単に自然因果律によって規定されつくしてしまうものであるならば,われわれは決して道徳律にしたがって行為すべきだということは生じてこないからである。」として自由意志の存在を確証している通りではないかと考える。[3]

 

6・刑罰の正当化根拠は「応報」にある

 以上,刑罰の正当化根拠について検討してきた。まとめよう。

 犯罪予防などの目的を達するが為に刑罰を科す,というのは妥当ではない。刑罰は単に罪を犯したがために,その反動として科されるものでなければならない。その意味では,例え模倣犯の出現可能性や再犯の可能性がゼロであったとしても,科されねばならないのが刑罰であると言えよう。加えて,刑罰は犯した罪の重さに対応したものである必要がある。「目には目を」という言葉は,片目を潰された者が両目を潰し返してはならない,という含意があるという。これは現代にも通用する法格言である。

 

[1]石山文彦2010.5『ウォーミングアップ法学』ナカニシヤ出版89頁

[2]守山正・西村春夫2001.4『犯罪学への招待[第2版]』日本評論社61頁

[3]岩崎武雄1977.8『カントからヘーゲルへ』東京大学出版会44頁